私の中で割とずっと疑問に思っていたことがあります。それが今回のテーマでもある”叱る”という行為です。一見相手のために見えるその行為ですが、それって本当にその人の為になってるの(いや、なってないのではないか)?と感じる場面に出会う機会が、これまでの人生の中で少なからずありました。(自分がする側される側、誰かがする側される側の場面を見た場合も含め)
叱ってもらうことはありがたい(と思われる)ことを形容する表現として、“言われるうちが華”というフレーズを耳にしたことがある人は多いと思います。そこから飛躍すると、“言われなくなったらおしまい” や“言われなくなった人は見放されている”などと評価されることもあるかもしれません。
特にビジネスの場面においては、そういったフレーズを聞くたびに、私はそうならないようにしようとか思いつつ、どこか窮屈な感覚があったことを記憶しています。今では、社会や誰かが決めた価値観に振り回されないよう意識することを心掛け、少しだけ俯瞰的に捉えることができますが、そのような価値観に合わせた生き方はしんどかったりします。
(他者の価値観と自身の思考のくせや行動習慣の関係については、「ザ・メンタルモデル」という本を読んで勉強になったので、その内容については改めての機会にお話しできればと思います。)
上記のような“叱る”行為について的確に説明してくれているのが、著書「〈叱る依存〉がとまらない」(著者:村中直人氏)です。最近読んでみて、自身が感じていた違和感が言語化されており、納得できることが多かったので、紹介したいと思います。
※著書内でも頻繁に述べていますが、この内容はあくまでも、“叱る”行為の本質と効果について言及しているものであり、叱る人を叱ることが目的ではないので、それを念頭において読んでいただければと思います。
この内容をテーマに、アベマプライムでも議論がされていたので、興味がある方は見てみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=R2TGTmu9snA&t=530s
1.“叱る”の定義
叱るという行為が成立するためにはいくつかの条件があるようなので、まずはそれを整理したいと思います。
条件1:相手の行動を変えたいという思いがある。
条件2:権力の非対称性がある。(行為のベクトル:権力のある人 ⇒ 権力のない人)
条件3:相手にネガティブな感情を与える。 ←ポイント
≪条件1の解説≫
叱る行為の場面として、「勉強する習慣をつけて欲しい」とか「仕事で成果を出してほしい」「ミスをなくしてほしい」等が挙げられますが、これらは“相手に変化を求めている”こととなり、それは逆に言うと、叱る人は“叱れば人を変えることができると思っている”ことを意味するようです。
さらに踏み込むと、“叱る”行為は叱る側求める「あるべき姿」や「してほしいこと」を実現する手段と解釈できるようです。
≪条件2の解説≫
親が子を、上司が部下を、先輩が後輩を「叱る」ことはあっても、その逆はあまり起こりえないため、叱る行為は権力のある人が行う行為と定義づけられそうとのこと。
ここで言う権力は、肩書や役職があるという意味だけでなく、「状況を定義する権利」であると考えるのが良いようです。その状況において、何が良い/悪いとされるか、どんな行為が求められ/禁止されるのかを決める権限を持っている、または決めることが許される立場にあることを指すようです。「正解」を決める権限を持っているとも言い換えられるようです。
≪条件3の解説≫
条件1と条件2だけを見た場合、それらを満たす行為は、「叱る」以外にもあるようで、「説明する」「説得する」「なだめる」「言い聞かす」「諭す」「促す」と、権力のある人とて誰かの行動を変えようとした場合に、選択できる行為はかなり多くあるようです。これらの行為と「叱る」行為の決定的な違いは、その攻撃性にあるとのこと。
辞書で「叱る」を引くと
(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める。
(目下の者に対して)声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ戒める。
と書いてあるようです。
これらの言葉には攻撃的なニュアンスが伴っているのが見てとれるかと思いますが、なぜ攻撃的でなくてはならないかというと、叱られる側に、恐怖や不安「ネガティブな感情」を発生させることが叱る行為には必須の要素だからではないかと著書では考察しています。
これらのことから、著書では「叱る」を以下のように定義しています。
“言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみ)を与えることで、相手の行動や
認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為“
いやいや、そんな相手にネガティブな感情を与えようなんて思って叱ってませんけど。。という反論もありそうですが、それは「叱る側」の見方であって、「叱られる側」の視点に立った見方ではなさそうですね。
「怒るのはだめだが、叱るのは必要」とか「怒ると叱るを区別することが必要」という説明に対しては、叱る側のことしか考えてないからほとんど意味がないと、著書では述べています。
叱られる側の体験としては、叱られても怒られても、強いネガティブな感情が生じている点において大きな違いはないようです。
私自身も、人が成長する過程において、叱る怒るを区別をしたところで全く意味がないと思っていました。誰かの成長に関与するのであれば、その本人の視点に立って一緒に考えるスタンスが必要だと。「叱られる側のネガティブ感情」というキーワードによって、今まで思っていたことの理解度が増した印象です。
2.“叱る”の効果
結論から述べると、「叱る」行為に、叱る側が求めるような相手の変化や成長への効果は期待できないようです。これは科学的に証明されている事実です。
では、なぜ人は叱るのか。
著書では、「苦しまないと人は変わらない(学ばない、成長しない)」という思い込みが、多くの人の中に存在していることが一つの要因だと述べています。
そう思い込んでしまう原因は、叱る側と叱られる側の脳内で生じていることにフォーカスすると見えてくるようです。そして、著書の表題にもある<叱る依存>、すなわち叱ることがやめられない事象とその原因についても。。
詳細は次章の投稿で話したいと思います。感想ご意見あればコメント欄までお願いします!