〈叱る依存〉がとまらない解説(第4章)【心理・社会領域】
〈叱る依存〉がとまらない解説(第4章)【心理・社会領域】

〈叱る依存〉がとまらない解説(第4章)【心理・社会領域】

著書「〈叱る依存〉がとまらない」を解説してきたこちらのシリーズは本投稿が第4回となります。(本当は本投稿で最終章にするつもりでしたが、長くなりそうなのでラスト2回にします。。)

 

これまでの内容の簡単な振り返りは以下の通りです。

第1章(←リンクから記事に飛べます)では、“叱る行為”の定義とその効果についてお話し、

第2章(←リンクから記事に飛べます)では、叱られる側の脳内メカニズムにフォーカスすることで、なぜ学びや成長の効果がないのかについて紹介し、

第3章←リンクから記事に飛べます)では、叱る側、叱られる側双方の脳内メカニズムとその関係性についてフォーカスすることで、なぜ“叱る行為”を繰り返してしまうのか、解説していきました。

 

本章からは、<叱る依存>に陥らないために我々できることや考えられることを紹介していきたいと思います。

アプローチの種類としては、以下の2つに大別できます。

1.社会という大きな視点でのアプローチ

2.個人にフォーカスした視点でのアプローチ

 

本章では、1.社会という大きな視点でのアプローチについて紹介していきたいと思います。

 

1.社会という大きな視点でのアプローチ

社会という大きなくくりの中でできる・考えられることとして、以下のことが挙げられています。

・苦痛神話からの卒業

・処罰感情と向き合う

・「叱らずにはいられない人」への支援

これらは、社会全体の常識や通説をアップグレートし、新しい考え方を社会全体に広める必要があるため、容易なことではないと考えられていますが、だからこそ地道に取り組む価値があるとされています。

 

では、以下でその詳細を見ていきたいと思います。

《苦痛神話からの卒業》

これまで述べてきたとおり、叱る行為は即時的に相手の回避行動を生み出すため、一見効果があるように思われます(実際には成長や学びの効果はない)。これが、「苦しまないと人は変わらない(学ばない、成長しない)」という世間の思い込み、につながっていることについては、第3章で言及しました。

このような、苦痛神話とも呼べる社会的な認知の歪みにまずは気づくこと、が必要だと著書では述べています。

最近、「客観的に捉える」とか「自分の認知の仕方を認知する」ことを、メタ認知とかメタ的という言葉として聞くことが増えたなと感じるんですが、これもまさにそうなのかなと思います。

ネットやゲーム界隈だと「メタい」とか「メタる」という言葉が使われているようですが、このような視点は意外と若い人たちの間では当たり前になりつつあるのかもしれないですね。

 

そしてさらに、優秀な指導者、保育者、管理職には、「叱る」に依存することなく、学びや成長、目標達成を促す知識やスキルが必須だという認識が求められるようです。

 

《処罰感情と向き合う》

これもメタ的な捉え方になりますが、人には食欲や睡眠欲があるように、人を処罰したいという欲求があることを認めることが重要だそうです。

それが認められたら、「処罰感情の適切な満たし方」と向き合う必要があるとのこと。お腹が空いたからといって食べ物を盗んではいけないのと同じことですね。

ただしこれについては、そもそも処罰感情が生来的な欲求とし認識されていないため、どのように満たせばよいのかほとんど議論がされてきてないのが実情で具体的な解決策は見いだせていないようです。しかも、処罰感情の充足に歯止めがかからなくなるのは、「相手のため」や「社会のため」などにすり替わっていて、正当化されているケースが多いようなので厄介ですよね。しかし、そのような欲求の暴走で傷つく人がいるのだから、向き合うことが必要とのこと。

 

最近では、話相手や愚痴聞きの延長として、叱られ代行や怒られ屋など、ストレスのはけ口となるサービスもあるようですが、その有用性についてはどうなんでしょうか。人が行うサービスである以上は、聞く側のストレスは少なからずかかりそうですが。。

個人的には、AIがこういう役割を担えるようになってもいいんじゃないかと思いますがどうでしょう。アプリとかロボットに向かって叱って気分がすっきりした分だけポイントがもらえるサービスがあったら、生身の人間に行うことの回避にも繋がるような気がしますが。

 

《「叱らずにはいられない人」への支援》

社会全体として、「叱る」がやめられない人の多くには、そうならざるをえない背景として、それぞれの「受け入れがたい現実」を抱えている、ということを知っておくべきだと著書は言います。

その人自身が叱られ続けてきた人の可能性もありますし、その場合「叱る」以外の方法を学んでこなかったのかもしれません。

そういった叱らずにはいられない人が、“叱らなくてもよくなる”ためには、非難の言葉ではなく支援や教育が必要であることを、著書では訴えています。

ただし、著書ではその具体策までは明記されていませんでした。もしかしたら本人すら支援の必要性に気づいていないかもしれないし、自分に助けなど必要ないと強く主張される場合も考えられるため、仕組みの構築は容易なことではないようです。

 

ここからは、上記内容の個人的な所感になりますが、叱ることの本質を理解できておらずメタ的な視座を持てていない人が少なくないのが現状であるため、支援の在り方を考える上では、まずそのような視座を持てる人を増やして点と点の現状を線にすることが必要だと思います。

それを促進するために手っ取り早いのは、組織やコミュニティなどのマスの力だと考えます。ただし、組織に関してはその文化的風土に認知的な歪み(ここではそういうやり方でやってきたからそれが正しい、みたいな)が隠れていることも少なからずあると思われるので、期待したいのは、問題意識を持つ個人と個人をつなぐようなコミュニティになるかなと思います。

SNSが普及している昨今であれば、コミュニティを構築することは難しくないと思いますし、点が線になって面になるスピードも向上するのではと考えます。そうした土台ができれば、どういった支援が必要なのかや、支援の必要性を感じてもらえる仕組み作りのハードルも下がっていくのかなと思います。

 

本章の内容は以上になります。次章がおそらく本当の最終章になりますが、<叱る依存>に陥らないための個人にフォーカスした視点でのアプローチについて紹介したいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます。コメント、ご意見等あればよろしくお願いします!

 

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